フィリピンマニラ戦争遺産

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フィリピンは約2年半に渡って日本軍の軍政下に置かれ、マニラには当時の戦争の痕跡を残す建物や施設が多く残されています。その建物や施設、山下奉文大将が降り立ったネルソン飛行場の管制塔などマニラ市街戦ゆかりの地を巡りませんか。

ネルソンタワー(旧日本軍陸軍飛行場、山下大将到着)

敗色が濃厚となった昭和19年(1944年)、山下奉文将軍は第十四方面軍司令官として起用され、フィリピンの防衛戦を指揮することとなった。山下将軍が着任するときに降り立ったネルソン飛行場の管制塔として使われていた「ネルソンタワー」である。意外にもこのネルソン飛行場はマカティのど真ん中にあり、滑走路はおなじみアヤラアベニューとパセオデロハス通りでした。

アメリカンセメタリー(桜兵営跡)

アメリカ軍基地であった場所に作られたアメリカン セメタリー。アメリカ国外最大級の、戦争の犠牲となった軍人のための墓地です。第二次世界大戦で犠牲となった 17,000 人以上のアメリカ兵と、アメリカ軍に仕えた 517 人のフィリピン人が埋葬されています。アメリカ軍基地であったフォート ボニファシオに 61.5 ヘクタール に渡って広がる墓地。戦争の犠牲となった兵士たちを悼む鐘の音が鳴り響いています。

フィリピン空軍博物館 (小野田少尉の私物、B29のエンジン展示)

アメリカ大使館

フィリピンの航空史などをパネルで展示。また、終戦後もルバング島に30年近く立てこもっていた小野田寛郎元少尉の備品や、帰国後にフィリピン政府に宛てた直筆の手紙なども展示されている。すぐ近くの基地内にある航空公園には実際に使用されていた16機の航空機が展示されえいる。

アーミー・ネイビークラブ(水交社)

水交社とは、海軍高等官(少尉以上の高等武官、工廠の技師などの高等文官)のための組織です。海軍高等官になると同時にこの水交社の会員になり、水交社の設備を利用する資格が発生したようです。時の海軍大臣が会長を務め、現代風に言うと「海軍省が所管する特殊法人」であったようです。

キアポ(戦前戦中の繁華街)

現地の買い物客でにぎわうキアポ教会周辺は、戦前戦中も変わらず繁華街として賑わっていました。キアポ教会は、フィリピンで最も大きな市場、キアポマーケットの中にあります。

マニラ防衛隊司令部跡(現:国立博物館 新館)

太平洋戦争中、陸軍によって占領されたフィリピンのマニラ市及び周辺地区の防衛を主たる任務とするマニラ防衛隊が設立され、その司令部として設置された。。戦争末期、米軍のルソン島進攻迎撃のため振武集団が編成され、マニラ防衛司令部も編入された。1942年6月まで「大マニラ(市)防衛司令部」とされ、7月以降は「マニラ防衛司令部」と記載されている。

マニラホテル(マッカサー司令部)

フィリピン大統領の公邸であるマラカニャン宮殿と肩を並べるこのマニラホテルは、1909年に建てられたフィリピン最古のプレミアホテルで、1912年7月4日にアメリカからの独立を記念してオープンしました。1935年から1941年まで、ダグラス・マッカーサー将軍がフィリピン軍事顧問としての任期中に、ペントハウスを住居として使用していたことで有名です。

イントラムロス(旧スペイン人街)

1571年、スペイン人がフィリピン統治のために建てたマニラ最古の旧城壁都市。イントラムロスはスペイン語で“壁の内側”という意味。城壁に囲まれた市内のロマネスク風建築は太平洋戦争末期にほとんど破壊されてしまいましたが、12の教会のうち世界遺産にも登録されているサン·アグスチン教会が現存しています。

サンチャゴ要塞(マニラ憲兵隊本部)

サンチャゴ要塞はイントラムロスの北西の端にあり、パシグ川に面し重要な役割を果たしていたとされています。 スペイン人が城塞化し、その後、アメリカ統治時代に使用され、日本軍占領時代はここに司令部が置かれました。 今も地下牢、水牢跡などが残っています。独立運動の英雄ホセ・リサールが処刑前まで暮らしていたところでもありました。

日本軍がフィリピン人を虐殺した地下牢(サンチャゴ要塞)

太平洋戦争中は日本軍によって占領されていました。日本軍がフィリピン人に対して行った残虐な歴史の現場でもあるようです。いくつもの地下牢があります。太平洋戦争中の日本軍によるフィリピン占領時代、フィリピン人を水面下の地下牢に閉じ込め、満潮時に水死させた場所です。

第十二陸軍病院跡(現:マニラ市役所裏)

サントトーマス大学(連合軍側民間人捕虜収容所)

アメリカ人の捕虜を解放する代わりに、残った日本軍の一団をその場から逃がすという有名な話の舞台になった場所。この収容所で民間抑留者は、頭にしらみがつき、至る所に南京虫がいる劣悪な環境に置かれ、シャワーの際やトイレでもプライバシーはなかった。また民間抑留者の多くは、栄養失調、疾病あるいは看守による虐待が原因で死亡した。

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