日本軍はフィリピンで何をしたのか?

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第二次世界大戦において、フィリピンでは50万人以上の日本人戦没者が出ています。日米決戦の地となったフィリピンでは100万人を超えると被害が出ました。とくにマニラの市街戦では10万人が亡くなった。

戦闘に巻き込まれて亡くなった方も多く、また米軍がフィリピンを攻略して解放していく中で、激しい砲爆撃が行われたために、その被害も大きかった。日本軍による住民殺害などの戦争犯罪による犠牲も膨大な数にのぼりました。

なぜフィリピンは太平洋戦争で日米の決戦場になったのか?

日本がまず戦争の最初にフィリピンを占領したのは、当時石油を産出していたオランダ領東インド(現在のインドネシア)と日本の間に位置していたからです。また日米戦争になったことで、アメリカの植民地であるフィリピンを攻めなければならなくなった。

フィリピンは、戦後の日本との友好関係という点では韓国などとなぜ違うのか?

フィリピン人にとっての「マニラ市街戦」というのは、日本人の国民的記憶のなかにおける「ヒロシマ」や「ナガサキ」のような、ひとつの大きな悲劇であるという認識なのです。

日本がフィリピンに侵攻してマニラを占領することとなった経緯は?

フィリピンはスペインの植民地でしたが、1898年にアメリカに奪われます。その後、アメリカはフィリピンを独立させる方針に転換して、1935年には自治政府が発足、その10年後には独立することが決まっているなかで太平洋戦争が起きたのです。

その結果、日本はフィリピンを占領し、首都マニラを占領していきました。この戦争で、フィリピンは2度戦場になります。最初は、日本がフィリピンを攻めて占領していくとき。それから戦争の末期、日米の決戦場になって、その最大の戦場がマニラになりました。

なぜマニラが戦場になったのか?

マニラは植民地の首都だったからです。日米が当然これを取り合わないわけにはいきません。ただ、戦争の結果があまりにも悲惨だった。「マニラ奪還にこだわったのはダグラス・マッカーサーの政治的野心があったのではないか」という議論もあります。

日本に負けて一度はフィリピンを去るが「アイ・シャル・リターン」と言って再び奪還する、はマッカーサーにとっては外すことのできないことだったのです。

1944年の10月に米軍がレイテ島に上陸、日本軍もレイテに大軍を派遣して戦いますが、まもなく勝敗は決まりました。そのあと米軍がルソン島に1945年1月になって上陸してきます。

なぜ山下奉文将軍(当時の日本軍の司令官)は軍の主力をマニラから撤退させたか?

日本軍には日米決戦をする軍の精鋭をすでにレイテ戦で失ってしまっていました。マニラから撤退させてルソン島北部の山間部に移動させる決断をします。その中で米軍がマニラに迫ってくるわけです。

マニラにおける1回目と2回目の戦闘状況はどういうもの?

1回目は戦闘には到っていません。マッカーサーがマニラを脱出してコレヒドール要塞に立てこもり、マニラを「オープン・シティ(無防備都市)」と宣言します。都市の破壊や民間人の被害を防ぎました。基本的には無血入城だった。

2回目というのが、いわゆるマニラ市街戦です。米軍は日本軍が予想するよりもはるかに早くマニラに迫ってきます。そして1945年2月3日、まずマニラのサント・トマス大学にいた数千人のアメリカ人や連合国側の市民が日米両部隊の交渉の結果、戦闘を経ずに解放されます。

マニラから、すでに主力は撤退していた。一部の陸軍部隊と、港湾を死守したいと考えていた海軍の部隊でした。乗る船を失った水兵や現地で応召した在留邦人などを集めた雑兵の部隊でマニラ海軍守備隊と言います。2万人位の日本軍が残っている状態で、包囲する米軍との間で戦いが始まりました。

なぜ多くの市民に犠牲者が出たのか?

市街戦が始まると日本軍は主に現在エルミタと呼ばれている地区に立てこもっていきます。米軍は徐々に包囲線を縮めていき、日本軍をイントラムロスというスペイン時代の古い城塞都市にまで追い詰め、最後の最後は政府官庁の建物に立てこもっていた日本兵を完全に掃討するまで戦闘が続いたのです。

市街戦に民間人が巻き込まれてしまったのは、戦闘が始まった時点で都心部に市民がたくさん残っていたからです。戦闘が予想よりも早く始まったからというのもあるでしょうし、1回目が無血占領だったこともあり、これほどの戦闘になるとは思っていなかったということもあります。

都心部は頑丈な建物が多いため、むしろ病院や富裕層の邸などの建物の中に避難する方が安全だとして何百人何千人という単位で避難したケースが多いと言われています。

日米は十字砲火を交えますから、その巻き添えで亡くなるということがあります。米軍は街をなるべく破壊したくなかったので空襲を避け、銃砲火を使っていました。

日本軍の狙撃によって死者が増えてくると、日本軍が立てこもっていると思われる建物・地域に向けて大口径重砲による砲撃をはじめ、それがだんだん無差別な砲撃になっていきました。砲撃による死者が全体の4割にのぼると推定する研究者もいます。

日本軍による市民の殺害が横行しました。日本軍から見れば残された民間人はゲリラと同様の敵ですから、いくら処分しても軍法上問われなかったからです。

「処分しろ」という命令があったからなのでしょうか?

ゲリラ対策として住民も含めて「処分してよい」という指示が出されていたであろうことは日本軍の電報記録から分かります。しかし、作戦や軍事上の合理性を超えて不必要なほど殺害しているのは間違いないです。なぜ日本軍がこんなにも殺したのかわからない、動機が不明です。「ゲリラと民間人の区別がつかない」、「殺さなければ自分が殺される極限の状況の中で、少しやりすぎたかもしれない」ということです。

はっきりと手がかりがあるのは、米軍の戦争犯罪調査の過程で明らかになった、日本軍による集団殺害・戦争犯罪の頻発事例です。

「事件」と呼ばれるものもいくつかありますが…?

ラ・サール大学の事件がよく知られています。頑丈な建物だったので、ドイツ系の修道士やスペイン系の人々、フィリピン人などが避難していました。このまったく無抵抗な人たちが、突然乱入してきた日本兵によって銃剣によって惨殺された。

ベイビュー・ホテル事件。市民の中から日本軍が女性を選んで連行し、ベイビュー・ホテルに集めて集団レイプが横行したという事件です。この事件は日本軍の戦時性暴力の最悪の事例のひとつとして記憶されています。被害者の中に富裕層、すなわち証言を正確にできる能力のある人たちが多かった。残酷な記憶が爪跡としてフィリピンに残っていて、それが反日感情にもつながってくるわけです。

フィリピンが最も親日的な国のひとつになったのはなぜ?

戦後初期しばらくは、フィリピンはもっとも対日感情の悪い国と日本人も思っていました。それがいつのまにか変わって、今では最も親日的な国のひとつと誰もが疑わないように変化してきたのは事実です。

日本とフィリピンの場合では、加害と被害の関係が白黒はっきりついています。フィリピンは米軍とともに日本軍と戦って勝っていますから、名実ともに日本に対する戦勝国であるという自覚を持っています。米軍・フィリピン政府によって戦犯裁判が行われ、多数の戦犯が処刑されたのも事実です。

日本とフィリピンは、困難な交渉の末に賠償協定を結んでいきます。日本側としては戦時賠償として最大の額を支払います。戦争を知る日本人の側にはずっとお詫びの気持ちがあるし、許されている感覚があった。

フィリピンが日本人海外最大の戦没地だということもあって、1964年に自由な海外旅行が許可されると、多くの人たちが慰霊のためにフィリピンを訪れるようになります。戦争被害があったフィリピンに慰霊に行くのですから、慰霊の人たちは気配りをしました。

1962年に皇太子夫妻として訪れた天皇皇后両陛下も礼を尽くされた。フィリピン人はとても寛容な態度をとって、暖かく迎えてくれた。日本人から見ると意外なほど歓迎してくれる。そうすると日本人は感謝します。この関係が1970年代、80年代に積み重なっていった。

政府間で言えば、1970年代前半が目に見える変化がおきた。1973年に比島戦没者の碑、カリラヤの碑ができた。1974年にはルバング島で旧日本軍の小野田寛郎さんが救出されました。当時のマルコス大統領は英雄として日本に送りかえしてくれました。ルバング島で小野田さんたちは住民に被害を与えていたにも関わらず、日本に帰らせてくれた。

若い世代はフィリピンで過去に何があったのか、知る機会がほとんどありません。その結果、いまでは40代、50代の人間でもフィリピン戦についてほとんど知らないと思います。1990年代になるとフィリピン側でマニラ市街戦の忘却に対する抗議の動きが出てきます。

フィリピン大使である山崎隆一郎さんがあちこちの式典に出向いて、心からのお詫びをしています。フィリピン側はこれを評価して受け入れてくれた。山崎さんの謝罪は日本では報道されないから、日本人はさらに忘却が進むことになりました。日本側でもマニラ市街戦を取り上げる動きがここ5年10年で出てきました。

「フィリピンで日本軍は何をしたのか?」忘れないでください。

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