ある比女性の話

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 日本へ行くことになった経緯

ハイスクール卒業後の17歳のとき、付き合っていた男性との間に子どもができて出産しました(16歳で卒業)。

フィリピンでは仕事の機会が少なく給料も安いため、シングルマザーとなった私は、母に娘を預けて日本に行くことにしたんです。私はダンスが好きで、その頃は日本行きを斡旋するエージェントが沢山いました。

日本に行くのは怖くなかったか?

フィリピンでは仕事が無いので、海外へ働きに行く人も多かった。私も海外への憧れがあり、怖いというより冒険に行くような感じでした。合計四回日本に行き、名古屋、群馬、東京で働きました。

最初に日本に来たときは毎晩泣いて過ごしました。当時はインターネットもなく、フィリピンとは月一回の手紙でのやりとりだけでした。店によってはオーナーがヤクザというところもあったが、私の働く店のオーナーは運良くいつもいい人でした。

最初の店は同伴も禁止していましたが、手に入るお金は月300ドルだけでした。アパートと食事は提供されていたので、月給の二割くらいをフィリピンに送金していました。

四回目に日本に行ったとき、お客さんだった父親と出会って結婚した。ホテルのチャペルで結婚式も挙げました。

日本での結婚生活はどうでしたか?

当初はうまくいっていました。夫は最初、長女を日本に呼びせることにも賛成してくれてました。夫の両親も親切にしてくれ、日本料理も教えてもらいました。

二年ほどたった頃、彼は私がパブの仕事を続けることが気に入らず、喧嘩をするようになった。フィリピンでは結婚しても女性が働くことは当たり前です。フィリピンにいる娘と母に少しでも仕送りしたい。でも彼はそれを理解できませんでした。

文化の違いがあって難しかったのか?

そうですね。それに私はまだ23歳でしたから考えが幼いところもあったと思います。夫は私と彼の娘でもある次女に暴力をふるうようにもなりました。

長男を出産したときはとても喜んでくれたのですが、暴力は続きました。長男が一歳になる頃、彼の暴力に耐えかねてフィリピン大使館に助けを求めたんです。それから修道会のシェルターにかくまってもらい、支援を受けてフィリピンへ帰国しました。

フィリピンに帰国してからは、私の精神的な苦痛から、アルコールにおぼれる生活になりました。仕事もできず私の母がレストランで働いて家計を支えてくれたんです。

電気も水道もない、木切れでつくった家で暮らしていました。子どもたちは外で「ジャパゆきの子ども」といじめられて帰ってきましたが、そのときは自分自身のことで精一杯でした。

子どもが学校に行くようになってから、手紙で夫とやりとりをし、毎月一万円程度は養育費を送ってくれました。私もなんとか、洗濯婦などの仕事をして家計を支えました。

長男が高校生のときに送金も連絡も途切れてしまい、長男は働きながら高校を卒業することに…。

何か覚えていますか?

以前は日本の写真もたくさんあったのですが、昔の家に住んでいたときに洪水があってほとんどダメになってしまいました。

母子に寄り添ってきた日本人たちの存在

日本で結婚し日本で子どもを出産したが、エンターテイナーだった女性のなかには日本で子どもを妊娠した後フィリピンに帰ってから出産した人も多い。興行ビザの在留期限は最大でも六ヶ月だったため、出産前に帰国する必要があった。

日本行きを斡旋したエージェントも、彼女たちが契約中に日本人と結婚することを禁止したり、妊娠したらフィリピンに帰るとを約束させていた。そんな事情を見越していたのか、すでに家庭がありながらもそれを隠してフィリピン人女性と交際していた日本人男性も少なくなかった。

子どもが生まれたばかりのころは父親がフィリピンに会いに来たり、養育費やプレゼントを贈ったりしていたものの、いつしか連絡が途絶えて母子が取り残される。そんなケースが1990年頃から目立つようになった。

12009年に国籍法が改正され、日本人の父親から認知を得た子どもは20歳以前に届出をすれば日本国籍取得が可能になった。

母親が日本人であれば、こうした子どもの国籍を求めて自ら手続きをとることもないだろう。しかし、日本の法律を知らないフィリピンの母親たちは多い。

日本で生活していくことは簡単ではありませんが?

子供たちは、知人のツテを頼ったり技能実習制度を利用したり、エージェントを通じたりして来日します。日本語がほとんどできないために低賃金で働いたり、知らないうちに多額の借金を負わされていたりする子供もいるようです。

日本国籍のある子供たちは、日本への渡航や就労の制限がないことからエージェントにとっては利用しやすく、また日本語があまりできないことから騙しやすいため、安価な労働力として利用されます。

子供たちが日本をめざす大きな理由は、働けて稼げる国だからなのです。彼らがその後、何を選びどのような人生を歩んでいくのかを決めるのは本人次第です。

日本の社会に対して、これからどのようになってほしいか?

すでに日本には多様なルーツを持つ人が暮らしていて、「日本人ってこうだ」という型にはめるのは不可能になっています。「日本人像」に固執する古い考え方が、まだまだ根強く残っています。

自分について何か誇りに思うことはありますか?

家族を支えるために大学を中退して日本に働きに行ったとき、「教師だった親の頭の良さを引き継いでいない」と周りから言われて悔しい思いをしました。でも帰国後は、マニラの大手生命保険会社に採用されて働くこともできました。積極的に新しい仕事に挑戦してきました。外に出て人と会い、自分を成長させる努力をしています。

子どもの父親と連絡がつかなくなったとき、私の気持ちはぐちゃぐちゃでしたが、兄弟の助けを借り、コンピューターショップを開いて何とか子どもを育ててきました。子どもが自立したとき苦労しないように、洗濯のしかた、食事のつくり方もすべて教え、今はどこに出しても恥ずかしくない大人に成長しました。今ようやく「本物の母親」になれた気がして、そのことが誇りです。

働いたお金で兄弟を学校に通わせ、昼食代やおこづかいまですべて面倒を見てきました。息子についてもきちんと学資保険を積み立てておいたことで、大学まで出すことができました。だから今、息子には「父親に受け入れられなくても自分の道を進んでいけばいい」と伝えることができます。

フィリピンパブ全盛期の1990年代、エンターテイナーとして働くフィリピン人女性は「金のためならなんでもするふしだらな女」として描いた記事ものも目立った。

当時、多くの日本人はメディアが映すイメージを通じて彼女たちを認識してました。地元駅前の店に出入りする女性たちを偏見の目で見ていた。しかし、のちにフィリピンを訪れたとき母親たちは、屈託のない笑顔で迎えてくれた。

フィリピンでは海外で働き祖国に送金する労働者は「国民の英雄」ともいわれる。彼女たちは家族、親族を養うために海を渡った勇敢な英雄であり、そこに確かなプライドを持っている。そして日本人の血を引く子どもを愛情深く育てる母親でもある。

女性たちの初来日から30年ほどの月日が経ったが、母親たちの時代と同じように、彼女たちの子供たちが安価な労働力として日本社会で利用されている現実が今もある。

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