かってのマニラ日本人町

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江戸幕府の切支丹追放令で多くの日本人宗徒がルソン島へ流された。その中でも高山右近( 1552〜1615 )と内藤如安 ( ないとう   じょうあん )( 1550?〜1626? ) は切支丹大名としてよく知られた人物たちです。

1612年、徳川幕府の切支丹禁教令が出され、高山右近と内藤如安は家族や家来また宣教師たちと共に呂宋島(現在のフィリピン)に1614年に追放され、2か月の船旅の後マニラに到着した。

スペイン人総督ファン・デ・シルバを初め多くの人々の歓迎を受けた。ところが、右近は長旅の疲れや高齢のためもあって到着して40日ほどして熱病にかかり、63歳で亡くなった云われてます。葬儀は1615年2月イントラムロス内の聖アンナ教会で執り行われたが、この教会は現存していない。その後、右近の家族は日本に戻ることを許された。

マニラ市内のパコ公園近くにPlaza Dilao( プラザ・ディラオ )( 日比友好公園 )という小さな公園があり、ここには高山右近像があり、この周辺には400年前には日本人町があったと言われている。

一方、内藤如安については、高山右近と同様に戦国武将として生き抜いた人物で、 Church of San Vicente De Paul ( 聖ヴィセンテ・デ・パウル教会 ) に彼に関する記念碑があり、ここで亡くなったと記されている。

彼はこの教会周辺のイントラムロス(旧市街地)にサンミゲルという日本人町を築いた。最盛期には3000人もの日本人が住んでいたようですが、今は全く痕跡も残っていない。

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