1900年代前半、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオ市には、アジア最大級の日本人街があった。実はダバオと日本の間には、100年以上もの歴史がある。戦前、この街にはアジアでも有数の規模の日本人街があったのだ。
1903年、最初の日本人入植者がダバオに到着。そのうちの1人である太田恭三郎がマニラ麻(アバカ)の栽培を始めたところ、後にそれがダバオの主要産業へと成長した。
最盛期には、マニラ麻の生産に従事する日本人が約2万人も住んでいたという。
ダバオに建設された日本人街は「民が多く留まるように」という願いから、「ミンタル(民多留)」と名づけられた。この地名はいまでもダバオに残っている。
1941年12月に太平洋戦争が起きると、日本軍の侵攻によってダバオは激戦地となった。日本人移民のなかには戦闘で死亡する者や帰国するものが続出し、フィリピン人家族だけが取り残された。そして戦中に日本兵が犯した非人道的な行為によって、戦後の日系2世は激しい差別と迫害に苦しむことになる。
その結果、大半が日本名や出生証明書を捨て、日本人の親がいる事実を闇に葬り去った。だが、父親という大黒柱を失った多くの日系人家族は母子家庭となり、貧困のため教育を満足に受けることができなかった。そのため、いまでも多くの人々が山村に暮らし、困窮した生活を送っているという。
ミンダナオ島には、いまでも日本人をよく思わない人たちもいます。日本人は命の恩人だという意識を持つ人が、ミンタルの住人のなかには、少なくありません。
戦後、日本政府がおこなった手厚い経済支援のおかげで、現在のダバオには親日家も多い。日本人は気づいていないが、この南国の島には熱烈な日本ファンが存在する。
ドゥテルテ大統領のお膝元ということもあり、近年ダバオ経済は活気づいている。フィリピン観光省は2017年、国内外の観光客誘致策においてダバオに最も力を入れる方針であることを発表。
現在は保全計画の策定中で、プロジェクトが始動すれば、日本人が建設した病院や学校を再建するほか、史跡を説明する看板や情報センターが建設される予定だ。親日派のドゥテルテの後押しもあり、最終的には1200億ペソの予算が下りる見込みだという。
観光客誘致数も、16年の600万人から900万人に引き上げるとした。現在セブ経由などで成田からダバオ便を就航しているフィリピン航空も、直行便の就航を検討しているという。