ダバオ日本人街(ミンタル)復活

1900年代前半、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオ市には、アジア最大級の日本人街があった。実はダバオと日本の間には、100年以上もの歴史がある。戦前、この街にはアジアでも有数の規模の日本人街があったのだ。

1903年、最初の日本人入植者がダバオに到着。そのうちの1人である太田恭三郎がマニラ麻(アバカ)の栽培を始めたところ、後にそれがダバオの主要産業へと成長した。

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かってのマニラ日本人町

江戸幕府の切支丹追放令で多くの日本人宗徒がルソン島へ流された。その中でも高山右近( 1552〜1615 )と内藤如安 ( ないとう   じょうあん )( 1550?〜1626? ) は切支丹大名としてよく知られた人物たちです。

1612年、徳川幕府の切支丹禁教令が出され、高山右近と内藤如安は家族や家来また宣教師たちと共に呂宋島(現在のフィリピン)に1614年に追放され、2か月の船旅の後マニラに到着した。

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ある比女性の話

 日本へ行くことになった経緯

ハイスクール卒業後の17歳のとき、付き合っていた男性との間に子どもができて出産しました(16歳で卒業)。

フィリピンでは仕事の機会が少なく給料も安いため、シングルマザーとなった私は、母に娘を預けて日本に行くことにしたんです。私はダンスが好きで、その頃は日本行きを斡旋するエージェントが沢山いました。

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日本の環境

 

外国人労働者の受け入れを公に認めてこなかった日本が事実上いち早く門戸を開けたのは「エンターテイナー」とよばれるフィリピン人女性たちに対してだった。

高度経済成長を遂げた日本は1980年代、歓楽街での人手不足から、フィリピン人の女性たちに対して「興行ビザ」の発給を始めた。興行ビザは芸能やスポーツなどのために来日する人に与えられるビザだ。

女性たちはフィリピンでオーディションに合格し、歌やダンスのレッスンを経て日本にやってきた。しかし、実際の彼女たちの仕事の中心は客の接待であり、同伴(店外デート)や売春を強要する店もあった。

こうした矛盾を抱えながらフィリピン人女性たちが働く店は日本全国に拡大、いわゆる「フィリピンパブ」として定着していく。当時は年間数万人のフィリピン人女性が日本へと入国したと云われる。

しかし、各地で女性たちが暴行や性的虐待を受けていたことなどが明るみになり、日本への国際的な批判が徐々に高まる。2005年からは興行ビザ発給の条件が厳格化され、その後興行ビザによる入国は減少した。

20年以上続いた大規模なエンターテイナーの受け入れは多くのフィリピン人女性たちの人生を左右した。日本人男性と結婚した女性もいれば、客との間にできた子どもを未婚のまま出産した女性もいる。

こうした背景から、1980年代以降、日本人とフィリピン人の両親から生まれる子ども「ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」の出生が増え、現在その子どもたちの数は日本フィリピン両国を合わせて数十万人にのぼるともいわれています。

 

フィリピンと日本の文化の違い

フィリピンに住むときに気になる情報のひとつがフィリピンの文化です。日本との文化の違い、あらかじめ知っておいたほうがいいことがいくつかあります。フィリピンで生活していて感じる日本との違いや注意点などをまとめます。

※なお、レートは1フィリピンペソ=2.1円で、1円以下の金額は繰り上げて計算しています。(10000円=約4600ペソ)

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出入国書類の書き方

入国カード

全員必要

書式は予告なく変更になる場合があります。

フィリピン入国カード
1: パスポート・ナンバー
2:
3:
4: ミドルネーム
5: 生年月日(月・日・西暦)
6: 国籍
7: 性別(男性:MALE・女性:FEMALE)
8: 現住所
9: フィリピンでの住所(ホテル名)
10: 連絡先電話番号/メールアドレス
11: 職業( 「英語での職業記入例」参照)
12: 個人ID番号 (無ければ空欄)
13: 便名(入国時)
14: 出発空港
15: ACR-Iカード番号 (無ければ空欄)
16: 渡航目的
(休暇(バケーション)/会議/教育・トレーニング/公式ミッション/医療/ビジネス/帰国/雇用/OFW/宗教/その他)
17: 署名
18: 到着日
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